柔道

昨日は久しぶりの柔道。
慌しい一日だったのだが、柔道の時間は確保する事に決めているので、最後の30分だけだが稽古に参加した。
そして、柔道着を道場に忘れ、今朝取りに行ってきた。明日も稽古があるので、今日中に洗濯を完了させなくてはならない。
そんな状況で、事務所近くのコインランドリーに来ている。

柔道は
辛い、
楽しい。

186センチメートル、95キログラムの自分をいとも簡単に投げ飛ばす人たちがいっぱいいる。
楽しい。
昨日はちょっとだけ乱取り(立ち技のスパーリング?のようなもの)をやり、見事にコロコロ転がされた。
寝技の乱取りも少しやったのだが、これは稽古の量に比例しそうな気がした。センスも関係するのだろうけど。
ま、来年の目標は黒帯だ。




こんな文章が書きたくてコインランドリーでわざわざノートPCを広げているわけではない。
家庭のこと、仕事のこと、恋愛のことを書きたいのだが、なぜか筆が進まない。



仕事は来年初頭の会社登記に向け着々と仕事をこなしている。



家庭は妻と別居し、週に一度娘を交えた3人で食事に行く生活だ。



とてももどかしいのだが、決して毎日を暗い気持ちで過ごしているわけではない。
平常どおり、若しくは、平常より明るい気持ちで生活している。


今朝も、冷めた風呂釜に洗濯機から伸びるお湯取りホースを沈め、くみ上げたお湯で洗濯機を回しその間にお風呂掃除をしてきた。
しかも、洗濯物を干す為に出たベランダで今日の天気を知るという極めて健全な生活を送っている。

自由に自分の事を考え、自由に行動している。




もちろん、娘は幸せにする。
そして、別居しているとはいえ妻にも幸せになってもらいたい。
娘の為に・・・。

親が幸せではない環境ってどんな環境よりも辛いと思うから。
今自分ができることは、稼ぐこと。
つい最近、人生でピークのキャッシュフローだった時に感じた事だけれど、お金は人を幸福にしないというけれど、幸福かどうかを確認する時間を与えてくれる。

お金がないと、幸福かどうか確認する時間がない。

生活の為に働かなくてはならないから。
その生活が幸せかどうか確認する時間がないんだな。




今までの自分は、自分を完全に把握しているつもりになっていた。
把握できない自分がいる事も、わかったつもりでいた。

今感じるのは、自分なんて常に把握することなんて不可能だ。

出会う人、物、仕事、価値観、によって常に頭の中で化学反応が起きている。
それを責任感によって抑えるのが大人の生き方なのかもしれないけれど、今の自分には無理ですね。

責任感は必要だと思う、けれど、それよりも頭の中で起きている化学反応に忠実であることの方が大切な気がする。
っていうか、それしか今は出来ない。
この化学反応を止めてくれないと、次々に行動を起こしていく自分を止められない。
そんな自分が怖くもあるけれど、仕方がない。それしか出来ないのだから。




一昨日、年上の女性とお話をしていた時のこと。
彼女が、
「いつ死んでも怖くない」
と言った。



そのセリフは、以前にもいろいろな人から聞いたことがある。けれど、彼女の半生を聞いた後にこのセリフを聞くとなんとも言えない納得感が心を包んだ。
今までであれば、そのセリフに後ろ向きな感情を読み取り、ただ否定していたと思う。

しかし今回は、
人生は一回きり、スタートしたら後戻りできないもの。
犯した過ちも、成し遂げた実績も、獲得した名誉も二度と戻らないもの。
何もやってこなかったとしても、その無為の時間も戻らない。
こんな月並みな言葉がとともに頭の中に、しっくりと納まってきた。



家庭の問題、仕事の問題に、本当の自分の考えが明確になりつつある今、彼女のセリフがしっくりと頭に入ったのだと思う。



ここで暗い気分になり、刹那的な考え方に落ち込むのが今までの自分だった。
しかし、進化した自分は彼女にこんな内容のメールを送った。




『いついつまでは、死なないでください。いついつ以降も死なないでください。生きててください。』




何も希望がなくても、もう過去には戻れないとしても、あの若さ、勢い、夢、希望、白いキャンパスが戻ってこなくても、ただ生きているだけで、少し食事と会話をともにしただけで、幸せになる人がいるのだから。






この日記はノンフィクションです、が支離滅裂です。