歩くスピード

土曜日の夕方4時頃。
東京駅地下5階京葉・武蔵野線のホームへ向かう長い長いコンコースを、後ろに手を組みゆっくりゆっくり歩を進める長身の青年がいた。

動く歩道に乗ってもその歩みは変わらず、周囲の歩調と一切調和しないそのスピードにおばあちゃんさえも追い抜いていく。




はい、俺です。




最近ゆっくり歩いています。


早く歩くのに疲れました。



1998年冬。
月曜日午前7時頃。
恵比寿駅東口。コートを羽織り、サラリーマンもOLも早歩きで暖かいオフィスを目指している。
吐く息は白く、女性の手には手袋が目立つ。

そんな混雑の中、1人の垢抜けない若者が、通勤する人の群れに遅れじとついていく。
顔はまっすぐ前を向き、いや、周りが見えていないだけにも見える。
彼は、ウィスティンホテル東京の通用口に消えていった。


はい、俺です。

当時17歳位だったかなぁ。
ウィスティンに入っている中華レストランの厨房で皿洗いをしていました。
通勤のとき、カッコいいビルの中に消えていくサラリーマンに嫉妬と、いつか見てろよ!という今思えば意味の無いライバル心を燃やしながら、北京ダックがぶら下がる厨房の中で必死に皿を洗っていたのでした。
かといって、何をしたいという想いがあったわけではありません。

親に決められたレールに乗っかっていただけです。

正確な年齢は覚えていませんが、ほぼ10年前の出来事です。



当時は、周りを見る余裕なんてものはありませんでした。
すべての人から見下げられているという強烈な劣等感を感じていた事を、身体が覚えています。


通信制の高校に進学し、中学の復習よりももっと易しい勉強に意味を見出せず、かといってそれに変わる人生の道も自分の前に見ることが出来なかった。

ただただ、盲目の服従をしていたのです。


いつか、その服従をやめる時が来るとも思っていませんでした。

唯一感じていたのは、違和感。
その違和感を正そう、修正して違和感を消そうとあがいていた事を覚えています。

あがいていたといっても、選択肢が一切無いのです。
提供される選択肢は、親の提供する二者択一の選択のみ。つまり、親に従うか、否か。
外部からの客観的な選択肢につながる情報などゼロだった気がします。
いや、客観とか主観とか解っていなかったし、その二者択一の選択の否側の発想等する気がしなかったんじゃないかな。





その頃から比べると、大きく進歩しています。


東京駅をゆっくり歩いて思い出していました。
人の顔だけを見て生きていた頃の自分を。
あの時感じていた違和感は、正確だったのです。

自分で考えて、自分で人生を決めていかないといけない。

それをしていない時につきまとう違和感だったのです。



だれも、責任を取れない。



そんな人生は、辛いですな。




一瞬、楽しくなる時もありますが、ほぼ、辛いですな。

いや、そんな時期があるから今の自分がある、というシンプルなストーリーではないのです。
やっぱり、あの頃の生活を清算しないと、否定しないと次にいけない気がします。



両親を否定したくない。
けれども、違和感を感じる。

否の選択をすることは、両親を否定する事になる。


こんな事をずっと考えていた事を思い出しました。

お父さん、お母さんを否定するんですよ!!

それが出来ずに中学3年間を過ごした気がするし、その先の16,7,8歳の頃もその想いが強かった。



いまだにマザコンだし、親父の不器用な人生に同情的なある種”味”を見出したくなるけれども、それをまねる必要は一切無いし、真似られない。


真剣に自分の生き方を作らなくては。




俺は、本当はシンプルで、スマートで、強くて、賑やかな楽しい人生を生きたいのです。





長くなっちゃった。

本日は、東京体育館で水泳。日差しがプールサイドに差し込んでとても気持ち良かったです。
その後、新井薬師前の大好きなラーメン屋さん“http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13006941/”へ。

美味しかったぁ。

あとは、新井薬師から商店街を通って、ブロードウェイ、サンモールを通って中野駅へ。
ずぅっと、後ろで手を組みながらゆっくり、ゆっくり散歩した一日でした。