ブログねた
書きたいな、と思って手帳に書き込んでいたネタをすべて書いてしまいます。
1、夏休みの部活動
夜8時を回り、土曜日の山手線は繁華街から地元へ帰っていく若者達が多い。
まだ繁華街の華やかさから物理的に近いせいか、それぞれの佇まいも比較的しなやかに見える。
その中に、大きな学校指定のスポーツバックを肩に掛けて乗り込んできた二人の女子高生。
部でキャーキャー良いながらデザインを決めたのであろうTシャツを肩までめくり、華奢であるがしっかりと引き締まった腕で、吊り輪をつかんでいる。
その腕の色は、同じ時間だけ、同じ太陽の下で過ごしてきた事を証明するかのように、同じ濃度に焼けている。
その顔を見たとき、「後顧の憂い」という言葉が頭の中を駆け巡った。
彼女達の顔には、一切の憂いがない。憂いが無い状況を憂うという気配さえない。
疲れきって帰りの電車に乗り、心許す友人と一日の活動を気持ちよく振り返り、家に帰れば温かいご飯と、家族が待っているのだろう。
明日が来るのが当たり前なのだろう。
部活動に精を出し、学業の悩みと異性に対しての興味を当然のように思考の中心に置く。
そんな時期を過ごしている彼女達は、決して変な人間にならないだろうな、と思った。
格差社会。
「後顧の憂い」だらけで、青春時代を過ごし、高校の学費を滞納している引け目を隠す事が思考の中心になりながら生きる高校生もいるだろう。
ただ、そんな事は社会に出てしまえば、小さな落差でしかない。
何よりも怖いのは、「後顧の憂い」をも失ってしまう事。
生きる意味をなくしてしまうこと。
憂う事もできなくなってしまう事である。
行動に規則性がなくなり、社会との距離を感じるどころか、個しか感じられなくなる事が一番怖い。
2、初体験
20歳前後、本州を縦断する自転車旅行に出た。
働いていたので、3年間に渡って、一年目は神戸→東京、二年目青森→東京、三年目博多→神戸を走破したのだ。
いや、三年目の途中、広島でベンツに撥ねられ実は未完走なのだが。
この旅には、同行者がいた。
三つ四つ年上の知り合い。
この知り合いの事があまり好きではなかった。
タイプが全然違うのだ。
価値観も違うだろう。
ずーっと彼の事を評価する事は無かった。
しかし、つい最近、ふと思った。
彼が自転車旅行を企画し、電車を手配し、ルートを計画したのではなかったか。
自分は、ただ、漕いでいればこの旅の実績に預かれたのではなかったか。
彼には、感謝こそすれ、評価などと言う言葉すらおこがましいのではないか。
個人的な相性は別にして、そんな当たり前の事実に気付いた。
どんだけ高飛車な自分なのかを思い知った。
静かに、電車の車窓を見ながらそんな事をふと感じたのだ。
何かを思い立ち、計画し、実行する。
自分は、何をしたのか。
タイヘ行った。
しかし、そこに計画は無いのだ。
思い立って、実行しただけ。
計画し、人を巻き込んだ何かを実行した事はほぼ無い。
数年前に、バーベキューを企画し実行したくらい。
童貞の男と同じ。
妄想の中での自分は、何でもできるスーパーマン。
ただ、実際の自分は、声も掛けられないもじもじクン。
少し、自虐気味だが当たらずとも遠からじ。
いや、それくらいの気持ちでいた方が良いだろう。
何をやったか。
この数を増やしていきたい。