生きるとは?仕事とは?

青臭い思考シリーズ。

愛娘も今年3歳になります。
娘に「好きで生まれてきたんじゃないやい!何で生きるの?」

と突っ込まれた時の説明を考え続けているここ2年、というか29年。

仮ですが、見えてきました。

“お父さんとお母さんに、愛を教える為に生まれてきたんだよ。それを教える為に生きているんだよ。”
って説明してあげようと思います。



恋人に対して言う
“愛してるよ。”

この言葉がどうしても言えず、今娘に対しても素直には言えないこの言葉。


これを少しずつ実感が伴うものにしてくれているのは、間違いなく娘です。

仮に、この回答を用意して思春期に臨みたいと思います。



そして、何で仕事しなくてはいけないか?何のために仕事をするのか。


昔々の原始時代、竪穴式住居から日の出と共に出てくるコウジ君。
彼は、一家の主であると共に、集落をきっての力自慢。

そんな彼は、雨の降らない日は必ずマンモスを倒しに行く事を日課としています。
ハントできる日は一年に数回。


でも、探しに行き日暮れと共に帰ってくるのです。


食べるご飯は、妻が取ってきた山菜と集落の仲間でとても賢いケイゾウ君がワナを仕掛けて取ってきたウサギ。


このウサギを受け取り続けられるのは、集落の各家庭にコウジ君が取ったマンモスを燻した保存食が常備されているためです。


そう、この集落の各人が共同体に資する何らかのハタラキをしている為に、食べ物にありつけるのです。


振り返って現代、貨幣経済が空気のように当たり前になってくると、労働の対価は食べ物ではなく、お金になっています。


“お金を稼ぐために仕事をするのだよ。”
という浅い段階までの仕事に対する自覚だと、金持ち>貧乏というような単純化された価値観になってしまう気がします。


誰かに資するハタラキをして、その対価として食べ物に交換できる貨幣をもらうのです。
つまり、風俗嬢だろうが総理大臣だろうが、誰かに資するハタラキをする事が、


“仕事する”

という事なのでしょう。
そういう意味で職業に貴賎はないのです。


当たり前のことを長々と書きました。


ただ、しっくりときたものですから。


さぁ、明日も八百屋さんの為に儲かる野菜をいっぱい仕入れるぞ!!